わたしたちの山辺町
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山さん王のう宮ぐうで大正13年に行った雨乞の記念写真やかんばつ、虫「四月下じゅんいこう、雨らしい雨がふらないので、五月二十九日に雨村は天満また日照下を加え六か村合同で、大寺の山の弟とうをした。雨は少々ふったが、田畑をうるおすまでにはふらなかった。」(山辺町の歴「毎年冷り、けんか・押四千束このような凶、畑あまごいだてすぎれいすい水いねたばざわはたをした。深村は愛神社で、それぞれ行った。その後少々の雨があったが、りが続いたので、今度は先の三か村に山野辺・北全員から出てもらい、六月二十日に大々的に雨乞のきしかけ・捨て子などがたえず、宇ほど刈って米七俵であったから、餓の三か村で百三十六人にも達りょうふかぼりあたごまんれきがいちゅうがいひょうきょうさく宕山で、大寺村は日のみこしを出し、常王宮照ででし杉じ料しひえ乞堀枝楯め目・寺子史)し害害おす宅稲か穫作飢餓死出作きががしややわ沢谷話)などの連続で、村内がふおんとなという収じょうきょうであった。者が続した。」(山辺夜さんのうぐうう えしゅうかくぞくしゅつたっ神社で、高右衛門では、し、北、簗たかきたじょうしょうもんたくきたさくやな― 115 ―の歴史や昔話の資を調べることにしました。村人の願い とおるさんたちは、玉虫沼について書いてある山辺町

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