わたしたちの山辺町
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ょうょう者しはそれまでの半分にまで過すぎて、お米のねだんが安く 昭和の初めごろは、関東地方でおきた地じ震し(関か東と大だ震し災さ)の悪いえいきょうがまだ続いていて、世界中がお金にこまってしまうこと(世せ界か恐き慌こ)も重なって、日本全体が不ふ景け気きな世の中でした。 そのせいで、山辺の織お物も業ぎへってしまっていました。 また、お米がたくさんとれなる年があったり、夏の間に気温が上がらず、お米が育たない年が続いたりして、人々はこまっていました。 次じ男なや三さ男なのはたらく場所がなく、お金のなくなった家では、むすめを売るしかなくなり、それをふせぐにはどうすればよいかが、大きなもんだいになっていました。(山辺町史426ページより)~昭和時代はじめごろの山辺の様子~▲1935(昭和10)年 山辺じゅうたん工場にたずさわった人たち昔の人は、とても困っていたんだね。わたなべでんきちさんぎょうなんとか解決できないのかな。― 123 ―伝吉んんんゃりのいういんんういんい オリエンタルカーペットのもとになった「じゅうたん工場」が、山辺町に作られたのは、1935(昭和10)年辺、順之助親子を中心に、じゅうのことでした。渡が、山辺の地にたんじょうしました。業たんをつくる産 昭しょう和わ時じ代だい初はじめの山辺の様子と人々の願い みさとさんたちは、昔の山辺や人々のくらしについて調べることにしました。

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