わたしたちの山辺町
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品繍術し米会館福配合毛料つ年ょう昭し和わ天てん皇のう・皇こう后ごう両り陛へい下か、工こう場じ視し察さつ。太たい平へい洋よう戦せん争そうが始はじまったことにより、会社は休き業ぎ。質しつがよいことが認められ、皇こう室しつからも注ち文もんを受ける。売うり上あげがのびる。順之助が八十歳でなくなる。クラフトン(手て刺さしじゅうたん)の本ほん格かく的てき生せい産さん開かい始し。工場も増え、東京に事じ務む所しょを作る。従じ業ぎ員いんは約四百名。アメリカに向けて輸ゆ出しし、高い評価を受ける。戦争が終わる。技術も向上し、生産量や工場もふえる。羊を飼育し、原料の羊毛を自じ給きしようとするが失敗。山辺にじゅうたん工場をつくる。おもなできごとょうょうゅつゅうゅつゅうょうゅうょうゅうじゅつげいひんもちごめしゅうもちげんりょうようもうしゃがいふなかいかんゆうふくしんぱいこまごう出典:『山辺町郷土概史』(1970) これから始めようとしている中国じゅうたんは、刺のような芸に近いものだ。 山辺には女の人が働ける場所がどうしても必要だ。父・伝吉の思い出父は、「正月でも餅がつけない家がある。」と聞くと、夜、そっと餅をその家の前に置いてくることもありました。19351936中伝国吉かがら六、十七一人歳ので技ぎなく術じな者しゃるを。呼び、指し導どうを受ける。伝吉も順之助も、困っている人々を助けるためにとても努力したのだね。 原ルから手に入れられる。 日本と仲よくしている地いきだから都193819401941となる羊は、中国の北の方やモンゴ19451949順葛くずの之根ね助を、使仲っ間てと、一いっじ緒しょゅにうオたリんエをン織おタルるカ。ーペットを設せつ立りつ。 このじゅうたんを買ってくれるのは、①外国の船や外国人社②日本国内の役所や銀行、大きな会など、お金をたくさん持っている裕な人たちだろう。だから売れなくて困はなさそうだ。る心がよい。1955196019711981― 125 ―カーペットが認められるまでの工夫や努力順之助の思いや願い

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