うふか家100年前ころ(明治・大正・昭和時代)羽前山辺駅ができたころかわりが一目でた・ 自動車がない家もたくさんあった。し・テレビが白黒だった。か・ 家にお風呂がなく、銭湯に通っていた。め・ 学校が終わると学年関係なく野球などられるね。学習した中かをして遊んでいた。ら自分が「へえ」「なるほど」と思ったことを書いていくと、オリジナルの年表ができるね。(昭和時代)おじいさん・おばあさんが子どものころ(昭和~平成時代)お父さん・お母さんが子どものころぎ技び備現在私たちが生まれ育ったころ(令和時代)これまで学習しになり、全国でよく売れてほしい。てきくさん来るようになってほしい。たことを生かし、ぼくたちが大人になったころの山辺町の様子を予よ想そしたよ。こなってほしい。のような町がんばほしい。っていきたいね。私たちが大人になったころのう・ 農・せんたく板で洗濯していた。・かまどで調理をしていた。かいが開どう道さい催きょう競じょう・ インターネットを使って、情ほう報かん・ 学校の教室にもクーラーが完じゅう・ べにばな国体が行われ、山辺町では柔年代60年前ころ・ 二層式の洗濯機を使っていた。・ 台所はの調理は ガスコンロが主流30年前ころ・ クーラーがない家もまだまだたくさん・テレビゲームが流行した。・ 学校に一人一台のタブレットが入っ30年後ころ人々のくらしかの家の中では牛を飼っていた。だった。あった。に手に入れられるようになった。た。た。え、明るい町になるように私も知恵を出したり工夫をしけたいと思います。山辺町のできごと・ 左沢線が開通し、羽前山辺駅ができた。・ 現在の山辺町は五つの村に分かれてい年た。表にまとめ自友るだ分とちで・ 須川の流れが今と違っていた。、に調・ 昔の役場が山辺小のそばにできた。山聞べ・ベルの前の道路がなかった。辺いた・ 町の人口は一万五千人をこえていた。た町こ・ 五つの村が一つになり、山辺町ができこのとた。と様、をイ子「ンの年タ・ 田畑が広がっていた大門地区や近江地う表ビ区に住宅地が広がっていった。つ」ュ・ 作谷沢小中学校や大寺小学校が新校舎にりになり、山辺小には新しい体育館、相ーま模小には新しいプールができた。しとためこよとう・新しい山辺中学校ができた。。、へ・ 町の人口が少しずつ減を簡単なくなっていった。・ 大寺小が山辺小に統合された。・ 作谷沢小中学校が相模小と山辺中に統され合された。になるように、ぼくも・ 町に住む人が増え、明るい街になって・ 山辺町のニットがさらに全国で評判に・ 山辺の米や果物、花など農産物が有名・ 山辺がすてきな町になり、観光客がたされた。り、子どもが少― 85 ―これまでの学習をふりかえって 昔のくらしは大変なことが多かったとわかりました。私たちのべんりなくらしは、昔の人たちの知恵や工夫によってつくられたのだなと思いました。 この大好きな山辺町の人口が増つづたりして、大人になってもずっと住み続わたしたちの山辺町 今 むかし 年表 名前( やまだ さちこ )(3)町の様子のうつりかわりをまとめよう
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