-2-時は江戸時代の直前、山形城(現在の霞か城じ公こう園えん)の城主は義忠の父親の最も上がみ義よし光あきでした。「関ケ原の戦い」(一六〇〇年)においては、最上義光は徳川家康に味み方かたし、四男の義忠を最上家の代表として証人(人質)となり、家康の傍かたわらに送ったということです。その時に義忠の人生を物語るエピソードがありました。ょう旧山形城(現在の山形市霞城公園)の最上義光銅像
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