本文
やまのべ人物伝 安達峰一郎
|
◇少年時代と学生時代の博士 博士は1869(明治2)年、高楯村(現在の山辺町高楯地区)に生まれました。幼少のころ向学心に満ちた家庭環境で育ち、ひと際高くそびえる小鳥海山の大杉を眺めながら、自分も立派な人間になり世のために尽くそうと決意しました。 東京にある帝国大学法科大学に入学した博士は国際法を学びました。少年時代の逸話に、外国語の発音の学習のため馬見ヶ崎河畔で小石を口に含み練習したと伝えられていますが、外国人教師の通訳を務めるほどの巧みな発音は、後年、フランス語はフランス人より美しいと言われたほどです。 ◇外交官時代の博士 大学卒業後、外務省に入り、日露戦争後のポーツマス講和会議では、随員として、広い外交知識を駆使して、小村全権委員を補佐しました。その時の学識が認められて明治40年(1907)法学博士の学位を授与されました。 その後、ベルギー公使、国際連盟日本代表などを歴任。正義と公平に基づく識見はどの国からも厚い信頼と尊敬を得ました。第5回国際連盟総会で国際紛争の平和的処理に関する「ジュネーブ議定書」が提案されて、日本だけが反対の立場に立ったとき、各国代表に対して説明している博士の姿を見て、当時の国際連盟事務次長新渡戸稲造博士は「安達の舌は国宝だ」と、そのフランス語の説得力を誉め讃えたそうです。 また、1929(昭和4)年に、ハーグ市で対独賠償会議が開催され、仏国と英国の意見が対立し戦争が心配されるまでに発展したとき、困り果てた両国から調停の依頼を受けた博士は、日本流の茶席に招いて和解させ、会議を成功に導きました。 博士の約40年にわたる国際社会での功績に対して、12カ国から第1級の勲章が感謝を持って贈られ、中には勲章制度を新たに創り、その第1号を博士に贈った国もあります。国際社会に正義と公平に基づく平和をもたらそうと努力した数多くの業績が、各国から『世界の良心』として正当に高く評価された結果でしょう。 ◇国際司法裁判所長時代の博士 1930(昭和5)年、オランダ国ハーグ市にある「世界の良心の府」といわれる常設国際司法裁判所裁判官に立候補した博士は、52カ国中49票という圧倒的な最高点で当選しました。2位は、英国、仏国、伊国の各40票で、当時の欧州中心の国際社会でいかに世界各国から信頼され、尊敬されていたかがこの結果で分かります。翌年1月、所長に選出された博士は、各国から尊敬と信頼を得られるように、裁判官に高い品性と判決の内容に高度で広い学識を求め、その権威を高めました。 1934(昭和9)年12月28日、心臓病が悪化し、帰らぬ人となりました。翌年1月、オランダ国国葬・常設国際司法裁判所所葬として葬儀が営まれ、ハーグ市では多くの市民たちが見送り、永遠の別れを惜しみました。 |
明治2年6月19日 | 山辺町高楯の安達久左衛門家に長男として生まれる。 |
明治22年 | 東京帝国大学法科大学入学。国際法を中心に研鑚を積み、仏、伊、英の3ヶ国語に熟達した。 |
明治25年7月 | 東京帝国大学卒業。 |
明治25年9月 | 外務省に入省。 |
明治26年 | イタリア在勤、外交官生活が始まる。 |
明治38年7月 | 日露ポーツマス講和会議全権団の一員として全権を補佐し活躍する。 |
明治40年 | 法学博士の学位を受ける。 |
明治41年 | 条約改正取調委員となる。 |
大正2年 | メキシコ公使として赴任。 |
大正3年 | 第一次世界大戦勃発する。 |
大正6年 | ベルギー公使となる。 |
大正8年 | パリ講和会議全権随員として各種委員会に出席して活躍。 |
大正9年 | 第1回国際連盟総会日本代表随員を拝命。 |
大正10年 | ベルギー大使、国際連盟日本代表となり、以後、第10回総会まで日本代表を務める。 |
大正13年 | 「ジュネーブ議定書」で孤軍奮闘する。 |
大正14年 | 帝国学士院会員となる。 |
昭和2年 | フランス大使となる。 |
昭和4年 | ハーグの対独賠償会議で仏・英の対立を調停、会議を成功に導く。 |
昭和5年 | 常設国際司法裁判所判事に最高点当選。 |
昭和6年 | 同裁判所長となる。 |
昭和9年12月28日 | 永眠 |
昭和10年1月 | オランダ国葬、常設国際司法裁判所所葬で送られる。 |
用語解説: ジュネーブ議定書 国際連盟 新渡戸稲造 日露戦争 国際司法裁判所
※「用語解説」のリンクに関するご質問・ご要望のお問い合わせ先